MBAではなくMPAに通う意味
2009/10/22
その昔、ある貧しい国の貧しい村に、一人の女性が住んでいた。
夫は、家族を捨てて、街に出たきり帰ってきていなかった。
彼女は、子供を抱え、仕事もなく、困り果てていた。
そこを訪ねた開発機関の職員に、彼女は機織の仕事をしたい、と訴えた。
心をうたれた職員は、もろもろの調整を進め、織り機の調達を助け、販路を確保し、彼女が機織ビジネスをできるようにした。
彼女は機織を始め、ビジネスは順調に拡大し、近所の女性を雇うまでになった。
数年後、職員がまた村を訪ねてみると、彼女はいなかった。
もう街に出て、別の家族を作っていた前夫が、彼女の村での活躍を聞いて、彼女を殺してしまったのだ。
---
もしも。もしも、上記の職員が私の大学のクラスメートで、「私はどうすればよかったのでしょうか。」と訪ねたら、私はなんて答えられるだろう。もしも、その職員が私だったら、、、私は・・・。
ケネディにいると、毎日、自分を築き上げてきた価値観の根本からチャレンジされる。
「なぜ、効率的なほうが、生産性が高いほうが良いのか?」
「なぜ、どんな権利があって、途上国開発という、『介入行為』が許されるのか?」
「国連のミレニアム開発ゴールは、極めて政治的に決まった指標であって、それに社会科学的な裏づけなど全く無い。」と教える教授に、猛烈に反発する一部のクラスメート。彼らの質問が長すぎてイライラする別のクラスメート。先生にフルに影響されるまた別のクラスメート。
なにが正しくて、なにが正しくないのか。そんな質問を誰かにしたら、延々と「正しい」とはなにかを問われそうで、とても怖くて聞けない。
飲み会の席でも気を抜けない。一気飲みをしていた次の瞬間に、Dependency theoryの是非についての議論が始まったりする。
エチオピアで投獄されていた話を聞いたかと思うと、アフガニスタンの農相へのアドバイスを求められたりする。
毎日、授業や講演のたびに、誰かが怒ってる。「そんな考えだから、開発に失敗するんだ。」と心から憤っている。それでもクラスメートたちは議論に飽き足らず、自主的に勉強会も開かれている。授業がとても開発経済よりだから、視点が偏るのを怖れたクラスメートが呼びかけたのだ。毎週、毎週、学校で、誰かの家で、飲み屋で、公園で、議論は果てしなく続く。
その議論に触発されて、私もしょっちゅう怒ってる。イライラしてる。ときには周りに対して、ときには自分に対して。時々、議論に熱くなりすぎて息を切らし、時々、根本から価値観を崩されて、よなよな悩んでいる。
---
ここにきてしばらくは、そういう哲学的な議論が嫌いだった。
超抽象的なレベルで善悪を議論するひまがないくらいに、世界には課題が山積みなのに!と憤っていた。
Aという行動が、プラスとマイナスの影響を及ぼすからといって、やらないでいたら、世界は変わらない、とあせっていた。
授業のたびに、ありとあらゆる先生やゲストスピーカーが、世銀やら国連やらを批判するのを聞いて、「じゃあ、代替案があるのか。」と問いたい気持ちでいっぱいだった。
たまにビジネスワールドからやってきた人が、自分の途上国向けビジネスを自画自賛するのを聞くと、なんだかほっとした。(誰だって悲観的な話よりは、希望にあふれてハッピーエンドなストーリーを聞きたいのだ。)
でも、もしも、私の浅はかなビジネスが、不可逆的な形で、誰かの不幸を招いてしまったら?
よく調べもせずに作った政策が、とんでもない失敗だったとしたら?
生物ならば、実験の失敗はやり直せば済むけれど、浅はかな考えによる「社会実験」(例:ベンチャー作ってみたけど、失敗しちゃった。テストして失敗した街は、まあしょうがないよね。)は、許されるのだろうか・・・?
途上国開発は難しいから、やれるところだけオポチュニティーを見つけてビジネスで解決してみました、は許されるのだろうか・・・?
---
プロフェッショナル大学院への留学を考えられているすべての皆さんへ。
もしもあなたの夢が、お金を儲けて裕福な生活をすることだったら、迷わずMBAをお勧めします。
もしもあなたの夢が、誰かほかの人の幸せに関わるものだったら、社会の変革を伴うものだったら、「Make a difference to the world」なものだったら、ケネディのような公共政策の大学院も選択肢の一つとして検討することを強くお勧めします。
ケネディに来て、社会に「変化をもたらす」という行為が、とても重大でおこがましく向こう見ずな行為だということにようやく気づきました。変化のプロセスには、きっとあなたが変化させたい方向の価値観(日本の国力維持だの、競争力向上だの、ひょっとしたら、「より便利な生活」とか「より良い教育」といったものまで)に根本から同意しない人も、意図せず巻き込むことになるでしょう。
私はそれでも、日本には国際競争力を維持してほしいし、より良い生活を人に届けたいと思うし、それを推し進める人を心から尊敬します。でも、変化を進める上で、前提となる価値観に合意しない人の存在についてどれだけ想像をめぐらせられるかは、たとえ結果としてとる行動が同じであったとしても、違いをもたらすと思うのです。
少なくともケネディは、そういう想像をめぐらす機会を与えてくれているように思います。
さしあたり大学生活を2ヶ月終えた感想まで。
夫は、家族を捨てて、街に出たきり帰ってきていなかった。
彼女は、子供を抱え、仕事もなく、困り果てていた。
そこを訪ねた開発機関の職員に、彼女は機織の仕事をしたい、と訴えた。
心をうたれた職員は、もろもろの調整を進め、織り機の調達を助け、販路を確保し、彼女が機織ビジネスをできるようにした。
彼女は機織を始め、ビジネスは順調に拡大し、近所の女性を雇うまでになった。
数年後、職員がまた村を訪ねてみると、彼女はいなかった。
もう街に出て、別の家族を作っていた前夫が、彼女の村での活躍を聞いて、彼女を殺してしまったのだ。
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もしも。もしも、上記の職員が私の大学のクラスメートで、「私はどうすればよかったのでしょうか。」と訪ねたら、私はなんて答えられるだろう。もしも、その職員が私だったら、、、私は・・・。
ケネディにいると、毎日、自分を築き上げてきた価値観の根本からチャレンジされる。
「なぜ、効率的なほうが、生産性が高いほうが良いのか?」
「なぜ、どんな権利があって、途上国開発という、『介入行為』が許されるのか?」
「国連のミレニアム開発ゴールは、極めて政治的に決まった指標であって、それに社会科学的な裏づけなど全く無い。」と教える教授に、猛烈に反発する一部のクラスメート。彼らの質問が長すぎてイライラする別のクラスメート。先生にフルに影響されるまた別のクラスメート。
なにが正しくて、なにが正しくないのか。そんな質問を誰かにしたら、延々と「正しい」とはなにかを問われそうで、とても怖くて聞けない。
飲み会の席でも気を抜けない。一気飲みをしていた次の瞬間に、Dependency theoryの是非についての議論が始まったりする。
エチオピアで投獄されていた話を聞いたかと思うと、アフガニスタンの農相へのアドバイスを求められたりする。
毎日、授業や講演のたびに、誰かが怒ってる。「そんな考えだから、開発に失敗するんだ。」と心から憤っている。それでもクラスメートたちは議論に飽き足らず、自主的に勉強会も開かれている。授業がとても開発経済よりだから、視点が偏るのを怖れたクラスメートが呼びかけたのだ。毎週、毎週、学校で、誰かの家で、飲み屋で、公園で、議論は果てしなく続く。
その議論に触発されて、私もしょっちゅう怒ってる。イライラしてる。ときには周りに対して、ときには自分に対して。時々、議論に熱くなりすぎて息を切らし、時々、根本から価値観を崩されて、よなよな悩んでいる。
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ここにきてしばらくは、そういう哲学的な議論が嫌いだった。
超抽象的なレベルで善悪を議論するひまがないくらいに、世界には課題が山積みなのに!と憤っていた。
Aという行動が、プラスとマイナスの影響を及ぼすからといって、やらないでいたら、世界は変わらない、とあせっていた。
授業のたびに、ありとあらゆる先生やゲストスピーカーが、世銀やら国連やらを批判するのを聞いて、「じゃあ、代替案があるのか。」と問いたい気持ちでいっぱいだった。
たまにビジネスワールドからやってきた人が、自分の途上国向けビジネスを自画自賛するのを聞くと、なんだかほっとした。(誰だって悲観的な話よりは、希望にあふれてハッピーエンドなストーリーを聞きたいのだ。)
でも、もしも、私の浅はかなビジネスが、不可逆的な形で、誰かの不幸を招いてしまったら?
よく調べもせずに作った政策が、とんでもない失敗だったとしたら?
生物ならば、実験の失敗はやり直せば済むけれど、浅はかな考えによる「社会実験」(例:ベンチャー作ってみたけど、失敗しちゃった。テストして失敗した街は、まあしょうがないよね。)は、許されるのだろうか・・・?
途上国開発は難しいから、やれるところだけオポチュニティーを見つけてビジネスで解決してみました、は許されるのだろうか・・・?
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プロフェッショナル大学院への留学を考えられているすべての皆さんへ。
もしもあなたの夢が、お金を儲けて裕福な生活をすることだったら、迷わずMBAをお勧めします。
もしもあなたの夢が、誰かほかの人の幸せに関わるものだったら、社会の変革を伴うものだったら、「Make a difference to the world」なものだったら、ケネディのような公共政策の大学院も選択肢の一つとして検討することを強くお勧めします。
ケネディに来て、社会に「変化をもたらす」という行為が、とても重大でおこがましく向こう見ずな行為だということにようやく気づきました。変化のプロセスには、きっとあなたが変化させたい方向の価値観(日本の国力維持だの、競争力向上だの、ひょっとしたら、「より便利な生活」とか「より良い教育」といったものまで)に根本から同意しない人も、意図せず巻き込むことになるでしょう。
私はそれでも、日本には国際競争力を維持してほしいし、より良い生活を人に届けたいと思うし、それを推し進める人を心から尊敬します。でも、変化を進める上で、前提となる価値観に合意しない人の存在についてどれだけ想像をめぐらせられるかは、たとえ結果としてとる行動が同じであったとしても、違いをもたらすと思うのです。
少なくともケネディは、そういう想像をめぐらす機会を与えてくれているように思います。
さしあたり大学生活を2ヶ月終えた感想まで。


願くば、より多くの護りたい人達が幸せになるように、更に願くば、より多くの人々に賛同してもらえるように人の世を変えられれば嬉しいのですが、難しいですね。
でも、そんななかなか同意が難しい事でも率直に議論できて、なぜ同意できないのかも含めてお互いを知ることができるようになった今の世の中に私は凄い可能性を感じています。
直ぐには解決できない問題の方が多いとは思うけれど、少しづつでも皆が行動し、影響しあってゆくなかで、解決できること、実現できる幸せも増えて行くように私には思えるのです。
ブログを読んでいると、皆がそれぞれ実現したい思いをもって率直に、きっとこの上なく真剣に議論できている姿が浮かび上がってきて、羨ましく感じました。
そうした場所?文化?をもっと拡げて行きたいですね。
夢を実現できるように頑張って下さい!
応援しています。
コメントありがとうございます!
Changeの人>残念ながら講演を聞き逃してしまいました。時々Youtubeで講演を見ていますが、いつ聞いても本当に、本当にうまいですよね。あれは、パブリックスピーキングの先生に言わせれば「テクニック」らしいですが、、、でも、やっぱり最後は心から信じてるから伝わるんだろうなあ、、、と思います。
正しさについて>
おっしゃるように、私も今の世の中には大変可能性を感じています。特に最近は、世界全体の人のことを考えよう、という風潮が強いですよね。
新しい仕事の現場も充実されていることを祈るばかりです。お互いがんばりましょう!
上は仮定の話ですが、多様な価値観に触れ、想像力を育むということは、迷いを生むし、あるいは自分の信念を強くするきっかけにもなるんだろうと思います。(機会費用まで考えれば)何かをなすにはどこかで何かを/誰かを犠牲にしているわけで、その現実の厳しさを乗り越えるのは、結構難しいと思うんですが、そういうものを割り切れる肝っ玉と難局を機に抜ける頭の良さは「make a difference」に必要なんでしょうね。
コメントありがとうございます。
信念を強くする、、、おっしゃるとおりかもしれませんね。人生においてなにかを成し遂げようと思ったら、リスクフリーであることはないんだなあ、と実感する今日この頃です。割り切る決断をする前に、もう少しだけ大学という環境で考えを進めてみようと思います。。。またお気づきの点がありましたら、ぜひアドバイスください!
MBAは到達点まで達するプロセス(ビジネス)を学ぶところだけれど、
MPAは新しい軸で到達点を創ること&そこに達するプロセスを学ぶ為の所なんですね。
いつも、読むのを楽しみにしています。
コメントありがとうございます。まだまだビジネススクールの実情がわからないのでなんともいえないのですが、少なくとも私はケネディで新しい軸で物事を考える方法をたくさん学んでいる気がします。ただ、それも公共政策の大学院すべてについて言えるかどうかはわからなくて、20代から60代まで、いろいろな国のいろいろな経験を経た人が集まって授業を取っているというケネディ独特のカルチャーに依存している可能性もあります。
なにはともあれ、MPAにも魅力を感じてもらえたようでうれしいです。また良かったらブログに遊びに来てください!